三章[三章]昇は、いつも素顔で髪を後ろで束ねているだけの信子に女性を感じた事はなかった、と回想するが「ありがとう」 「ごめんなさい」を言わず、何事も主導権を握っていなければ満足のしない信子の性格になじめなかったのかもしれない。 昇は35才になろうとしていた。 昇はいつも吉岡の言葉を思い出すようになっていた。 「これからは安保のような激動はないよ」 その言葉を裏付けるように日本は経済が高度成長を遂げ、国民皆が中流意識を持ち、かつての戦士達は穏やかな 生活をするようになっていた。 専従活動家といわれる人達もサラリーマン化して「革命」なんて言葉は死語に近い状態になった。 そんな時、昇は県会議員から直美という離婚歴のある女を紹介された。 質素だが薄化粧をしてフレアースカートをはいた直美は雰囲気がどことなく茂子に似ていた。直美は子供がなかった。 夫の愛人に子供ができて半ばその女に追い出されるような形で離婚していた。 相手の女は「あなたには子供がいないのだから、私のお腹の子供の父親を保障して」と直美に向かって迫ったという。 直美は黙っておとなしく引き下がった。夫は何も言わなかったという事であった。 相手の女は「勝った、勝った、私の勝ちよ」と周りに勝ち誇った、と後で昇は他人から 聞かされた。 直美は自分の周りに目に見えないバリヤーを張っているような所があった。 何を言っても「ふっ」とはにかむだけで余り話さなかった。 足掛け3年の結婚生活の後、離婚をして2年足らずしか経っていないのでまだ傷が癒えないのであろう。 歳を聞くと「30才」だと言った。 紹介者のその県議は「田中君、正義は熱くなければならないが、もっと静かで深い所で燃えているものだよ。 地球のマグマが計り知れない地の底で燃えたぎっているように、僕達の正義も普遍的で静かで熱いものでなければならない。 彼女にはそんな所がある」と言った。 昇は直美に会う度にいとおしさが増した。 直美も少しずつ昇に傾倒してくるのが判った。 その頃の昇は酒もたばこも辞めていた。 スナックやはやりのラウンジへ行く事もなく、昇は直美の家へ行った。 直美の父親も実直な昇を快く受け入れてくれた。 たまに直美の父親と呑んでも必ず自分のアパートへ帰った。 休みの日には直美が弁当を作って二人でハイキングにでかけたり、時には遊園地へ出かけたりした。 ある時、直美は動物園が好きだと言った。 「どうして」と聞くと「かわいそうで涙が出るの。どうしてこんな所にいなきゃいけないのって思うといとおしくて。 そんなひどい事をする人間に対して、もちろん自分に対しても悲しくなるわ。そんな動物達と時間を共有してると 時間ってこーんなにたくさんあるのねえって感動するの」と言った。 何の違和感もなく二人はいつも一緒にいるようになった。 春の晴れたある日曜日、昇は直美に何も言わずゴリラの檻の前で小さな包みを差し出した。 直美は包みを解く事なく手の平に載せて涙ぐんだ。 「見なくていいの」と昇は聞いた。 直美は「お母さんと一緒に開けさせて頂くわ。ありがとう」と答えた。 ゴリラはじっと二人を見詰めていた。 直美はその小さな包みをバッグに入れずに大事そうに手に持って歩いた。 直美との生活は静かな生活であった。 再婚をして次の年に男の子が生まれた。 続いて翌年、又男の子が生まれた。 直美の母親は「直美は昇さんと夫婦になるようになっていたのよ。ちょっと神様のいたずらはあったけれど」と 言って目を細めて孫の顔を眺めた。 昇はそんな因縁じみた事を言う母親に対して「そんな愚かな事を。うまく妊娠しただけじゃないか」と思った。 平凡だが静かな生活の中で茂子の事は薄らいで行った。 直美に初めの子が生まれた時は茂子も再婚をして子供も生んできっと幸せになっているだろう、と思った。 年子の子供達に振り回されて茂子の事を余り思い出す事もなくなっていた。 それこそたてがみのぬけたライオンのようにおとなしい夫であった。 子供達も素直で元気に育っていった。 子供が時折友達とけんかして帰って来る事があり、直美から「お父さん、たまには説教して頂戴」と言われ二人を前に 訓示を垂れる事があったが自分の子供の頃が思い出されておかしかった。 それなのに茂子からの突然の電話で昇は平和な心をかき乱されたのである。 茂子と再会してから2週間の間にいろんな事を思い出していた。 四章へ |